陳偉さん(1926年生) 陳偉さん
「わたしの家のすぐ近くの慰安所を経営していたのは60歳くらいの日本人だった。 ひとりで3か所の慰安所を経営していて、1週間に一度づつ、ここに来た。
慰安所は、日本兵だけが利用した。近くに軍部隊の病院があった。女性たちが、1週間に一度づつ、検査を受けた。
解放後、女性たちは、海口に連れていかれ、家に帰れといわれ、自由にされた。その話は、慰安所で働いていた親戚から聞いた」。
新盈中学
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紅民南街の「慰安所」として
使われた建物がある街路の敷石
当時から敷かれていた
紅民南街の「慰安所」
として使われた建物A
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林吉蘇さん
「日本軍がここに上陸してきたとき、山奥に半年間くらい逃げた。
いま新盈中学があるところに日本軍が、建物をつくっているときに、見にいったことがある。そこは、墓地だった。日本軍が墓を壊して、軍の本部施設をつくった。
わたしは、15歳か16歳の時に、日本軍が海口につくった中学校に入学し、卒業後海軍の特務部に配属され、日本軍の通訳になってここに戻ってきた。
‘慰安所’の経営者は、日本人。年寄りだった。
日本兵は‘慰安所’で、金ではなく、軍票を渡した。
大きな‘慰安所’には、日本人女性、朝鮮人女性、台湾人女性がいるということは軍の友だちから聞いた。紅民街の‘慰安所’には、海南人が多かった。
軍が、‘慰安婦’を連れてきたこともあって、‘慰安婦’が8〜10人いるときもあった。ここは派遣隊の‘慰安所’だった。
特務部にいたとき、軍本部の命令で、‘慰安所’に行くことがあった。土曜日に女性たちを検査のために病院に連れて行った。日本軍の病院で、医者や技官は日本人だった。
日本軍が敗けたあと、すぐ三亜に逃げてしばらく暮らした。そのとき、ときどき朝鮮の女性を見かけた。朝鮮の女性は、まくようなスカートをはいていた。ここの人たちとは、服装がちがう。
朝鮮語で話しているのを聞いて、朝鮮人だとわかった。意味はわからないが、聞いたら、朝鮮語だとわかる」。
林吉蘇さん(1925年生) |