新盈

   新盈の「慰安所」で、12歳のときに、洗濯や炊事をしていたという宋福海さんは、「慰安所は新盈派遣隊の川崗隊長が設営し、中年の日本人女性ふたりに管理させていた。4人の慰安婦がいた。みんな20歳 くらいで、ひとりは朝鮮人、ひとりはシンガポール人、ひとりは海口から連れてこられた人、ひとりはここの女性だった。  女性たちは、毎日むりやり多くの日本兵の相手をさせられ、悲惨な生活をおくっていた」と証言している。   (宋福海口述「我親睹的新盈日軍“慰安所 ”」より)
紅民南街の「慰安所」として 使われた建物B
(2002年3月31日撮影)
同じ建物
(2002年10月16日撮影)
陳偉さん(1926年生)
陳偉さん
 「わたしの家のすぐ近くの慰安所を経営していたのは60歳くらいの日本人だった。 ひとりで3か所の慰安所を経営していて、1週間に一度づつ、ここに来た。
 慰安所は、日本兵だけが利用した。近くに軍部隊の病院があった。女性たちが、1週間に一度づつ、検査を受けた。
 解放後、女性たちは、海口に連れていかれ、家に帰れといわれ、自由にされた。その話は、慰安所で働いていた親戚から聞いた」。 
 
新盈中学
紅民南街の「慰安所」として
使われた建物がある街路の敷石
当時から敷かれていた
紅民南街の「慰安所」
として使われた建物A
林吉蘇さん
 「日本軍がここに上陸してきたとき、山奥に半年間くらい逃げた。
 いま新盈中学があるところに日本軍が、建物をつくっているときに、見にいったことがある。そこは、墓地だった。日本軍が墓を壊して、軍の本部施設をつくった。
 わたしは、15歳か16歳の時に、日本軍が海口につくった中学校に入学し、卒業後海軍の特務部に配属され、日本軍の通訳になってここに戻ってきた。
 ‘慰安所’の経営者は、日本人。年寄りだった。
日本兵は‘慰安所’で、金ではなく、軍票を渡した。
 大きな‘慰安所’には、日本人女性、朝鮮人女性、台湾人女性がいるということは軍の友だちから聞いた。紅民街の‘慰安所’には、海南人が多かった。
 軍が、‘慰安婦’を連れてきたこともあって、‘慰安婦’が8〜10人いるときもあった。ここは派遣隊の‘慰安所’だった。
 特務部にいたとき、軍本部の命令で、‘慰安所’に行くことがあった。土曜日に女性たちを検査のために病院に連れて行った。日本軍の病院で、医者や技官は日本人だった。
 日本軍が敗けたあと、すぐ三亜に逃げてしばらく暮らした。そのとき、ときどき朝鮮の女性を見かけた。朝鮮の女性は、まくようなスカートをはいていた。ここの人たちとは、服装がちがう。 朝鮮語で話しているのを聞いて、朝鮮人だとわかった。意味はわからないが、聞いたら、朝鮮語だとわかる」。
林吉蘇さん(1925年生)
 
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